私が振り上げたパイプ椅子は、なぜかてんで違う方向に飛んでいた。
舞台袖にぽつりと置かれた大きな花瓶を直撃していた。
リュウの葬式みたいでいやだと私が下げさせた、大小さまざまに美しく咲き乱れる花たち。
パイプ椅子の直撃を受け、花瓶が割れ、水が飛び散り、花が疲れきったように床の上に横たわっている。
咲いているのに、死んでいるようだった。
リュウも今、私から遠く離れたプラハで、死んでいる。
花は咲いているのに、死んでいる。
違う。死んでなんていない。
私は自分で気がつかぬうちに、その横たわった小さな花を、手に取っていた。
リュウは生きている。彼の声が聞こえる。私の脳裏にしっかりと焼きついている。
彼が叫んでいる。
私の心の中で、必死に叫んでいる。
「平沢里香! お前をここまで育てたのはこの俺だ! お前にできないことは何もない! 自分の信念と情熱を信じ続けろ! この世で早瀬隆二からここまで愛された人間はいないんだぞ! お前だけなんだ! お前しかいないんだ! 忘れるな! お前はソリューションアイ創始者・早瀬隆二が八年もの間、愛して愛して愛しぬいた唯一の後継者だ! 俺の顔に泥を塗るようなことをしたら、ただじゃおかないからな!」
突然、電気が走ったように全身が波打った。
泣いている暇はない。
恨んでいる暇もない。
ソリューションアイを守らなくては。
私が後継者だ。米アイロン社でも、ドクターコフィンでもない。
私がやるのだ。
私にしか、できないのだ。
“お前の信念と情熱に従え。ただそれだけでいい”
やってみせる。私が守り抜いてみせる。
リュウが築き上げ、成長させたこの会社。
私の手で、復活させてみせる!
私はゆっくりと、椅子の上に座って震えているドクターコフィンに近づいていった。
彼はあきらかに、私を恐れていた。近づいてくる私を見ながら、瞳を不安定に揺り動かし、おびえている。
「ドクターコフィン」
ドクターコフィンが、母親に叱られた子供のように、びくっと一瞬、震えた。
「一ヶ月以内に、臨時株主総会を開きます。そしてそこで提案をして下さい」
「・・・提案?」
「米アイロン社からのソリューションアイ新会長の推薦を、辞退してください。そして早瀬隆二が指名した平沢里香を推薦し、支持すると。提案し、採決をしてください。私が必ず、提案を可決して見せます」
「無茶な・・・米アイロン社の幹部が黙っていない」
「あなたが黙らせるのよ! そしてあなたはソリューションアイとも、米アイロン社とも、一切の手を切ってハーバード大学に戻りなさい! そして人の命を救いなさい! あなたは37人も殺したのよ! そんなところでメソメソないている暇があったら、人の命を救いなさい! そして金輪際二度と、二度と私の前に姿を現さないで!」
ドクターコフィンは完全に圧倒され、黙り込んだ。
「では。一ヵ月後にここでまた、対決です。楽しみにしています。ドクターコフィン」
パソコンの画面を開き、キーを一つ叩いた。
外部に配布用のソリューションアイ会社案内ビデオが流れる。
「現在、世界5カ国に支社を持ち、ITからエネルギー事業まで幅広い事業を手がける多国籍コングロマリット企業・ソリューションアイは、さかのぼること約二十年前の1990年、ここ、ハーバード大学で、ある一人の若者のパソコンの中で誕生しました!」
ハーバード大学ケンブリッチ校舎が画面にうつり、そしてリュウの若かりし頃、大学生時代のキャンパスでの写真が画面にうつった。
寮の小さな部屋で、パソコン片手にカメラにはにかんだ笑顔を見せる21歳のリュウ。
相変わらず濃い眉毛に大きな瞳をしているが、その雰囲気に威厳はなく、どこかの気のいいおぼっちゃまのように見える。
「当時21歳だったソリューションアイ会長・早瀬隆二は、持ち前の才能とたぐいまれなる努力で、インターネット検索サイトを立ち上げ、瞬く間に世界の検索サイトを凌駕する存在となりました」
パソコンの画面に、東京の雑踏がうつる。そしてソリューションアイの旧本社だった代々木上原の雑居ビルがうつった。
「1995年、ハーバード大学経営大学院を卒業した早瀬隆二は母国である日本に帰国、ソリューションアイ本社を都心近郊の街に据え、新たにハードウェア開発事業部門を立ち上げ、更なる会社の飛躍を図ります」
そうしてソリューションアイの会社案内は、東証一部上場から六本木ヒルズへの本社移転、そして2002年の香港への本社移転までをめまぐるしい早さで紹介していく。
携帯電話事業部の立ち上げ、放送メディア事業部の立ち上げ、投資信託部門の立ち上げ。
そして・・・。
「2005年には、会社の収益を少しでも母国の介護事業に役立てたいと、はぁとふる訪問看護ステーションを設立・・・」
酒屋を改造した赤堤の旧本社前で、当時26歳の私とジミー、そしてリュウの三人が仲良く笑顔で立つ写真がうつった。私はリュウとジミーに挟まれて真ん中に立ち、社長らしからぬ、ピースサインをして、白い歯を見せて笑っている。リュウは腕を組み、満足げな表情を浮かべて、カメラを見つめている。
「2007年、新たなエネルギーとして注目されたエタノール事業出資のため、ブラジルのコーン油精製工場を買収。同年末にはロシアの天然ガスパイプ事業に出資、ソリューションアイの快進撃は止まりません」
四年後にこれが爆発するなど夢にも思わず、天然ガスパイプ事業竣工式に関係者を集めてテープを切る、リュウの姿。米アイロン社の買収合戦に勝った直後で、東ヨーロッパ各国首脳と肩を並べるリュウは、自信に満ち溢れていた。
「2008年、ソリューションアイは新たなCSR事業の展開を見せます。アフリカ復興計画の一環として、ハーバード大学医学部と協賛し・・・」
義手義足チーム、HIVチームが各方面で活躍をしている動画が続く。ソリューションアイの株価が十万を越し、何もかもが絶好調に進んでいた、まさに頂点を極めていた瞬間だ。
そして私はこのとき、ソリューションアイ地下にある秘密の核シェルターで、リュウに守られ、リュウに愛され、幸せな時間を過ごしていた。
たったの、一週間だったけれど・・・。
会社紹介が終わり、最後にリュウのインタビュー映像が流れた。
今後の事業戦略について、ソリューションアイ会長室でほんの数ヶ月前に撮影された映像だった。
「エタノール事業は食料品の高騰を招いていますし、ロシアの天然ガスもいずれは枯渇する資源です。今後ソリューションアイは、地球環境を破壊しない、永続的に生産できる持続可能なエネルギー開発に投資をする予定です。東京大学素粒子物理国際研究センターとのコラボレーションで、北極探索にかかる費用の大部分をソリューションアイが負担し・・・」
リュウは目の前に迫っていた自らの死を知る由もなく、熱い信念を持って未来を語っている。
このソリューションアイの歴史の先に、自分が会長として存在しないことなど、夢にも思っていなかったリュウ。
大丈夫。リュウ。私が引き継いだ。あなたの今後の事業戦略は、全て私が引き継ぐ。
「リカ。そろそろ行きましょう。演説が始まります」
ジミーが私の背中に手を置いた。
私はパソコンの中をもう一度覗いた。
熱心に、大きな瞳を光らせ、会社の未来を語るリュウ。
守っていてね、リュウ。
私は心の中でつぶやき、パソコンを閉じた。
振り返ると、ジミーの後ろに佐々木君が、これまでになく強い瞳で私を見つめ、立っている。
私は臨時株主総会が始まったソリューションアイ地下一階の大ホール控え室を出る前、再度姿見で自分の全身を確認した。
ダークスーツを完璧に着こなし、決して隙を見せなかったリュウ。
私も、黒いスーツの裾を直し、埃を一つとり、そして仲間たちに目で合図をした。
さあ。演説が始まる。